2025年
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2025.1.2
新 年
新しい年を迎えました。
2025年、令和7年。
昭和で言うと「100年」と聞いて驚きました。
でも、昭和37年生まれの私が、
今年で63歳になるのだから、
「37+63=100」。
何も驚くようなことではないと気付き
そのことに再び驚きました。
本年もよろしくお願い申し上げます。
2025.3.8
宮 崎
宮崎は私にとっては所縁のある土地だ。
母は、韓国併合の時代に朝鮮半島で
生まれたが、終戦後10歳の時に
引き揚げて宮崎に移り住んだ。
祖父が宮崎の出身だったんだ。
私が小学6年生(1974年)まで、
祖父と祖母は宮崎の川南というところに住んでいた。
ポツンと一軒家のような家で、道路から
数十メートル奥まったところにあり、
隣の家までは、山を一つ越えなければならなかった。
6年生の時に祖父を迎えに行った時を含めて、
子供の頃に3回か4回、その母の実家である
川南を訪れた覚えがある。
お風呂は、屋外の五右衛門風呂。
家のすぐ裏には川が流れており、
そこでカニやエビを取ると祖母が
甘辛く煮てくれたものが夕食に並んだ。
母の兄弟は6人で、ほとんどが
中学を出ると就職のために宮崎を離れた。
叔母(母の9歳下の妹)は宮崎で看護学校を
卒業後、しばらくして大阪に出てきた。
彼女は、私と18歳しか違わなかったので、
母は「おばさん」と呼ばせるのに抵抗があったのだろう。
「広子姉ちゃん」と呼ばせた。
広子姉ちゃんは、大阪で同じ宮崎出身の
酒屋さんに勤める男性と結婚。
その後、独立し大阪でふたりで酒店を営んだ。
私は「広子姉ちゃん」が大好きで、
年に数回、泊まりに行くのが楽しみだった。
小学生の頃には、私の運動会に来てくれたり、
大人になってからも私のライヴを観に来てくれたり、
家族ぐるみで一緒に旅行をしたりと、
母の兄弟の中でも一番交流のあった家族だ。
ふたりには子供がいなかったので、
私たち姉弟をかわいがってくれた。
もう35年ほど前になるが、店を売却し、
故郷である宮崎に移り住んだ。
先日、その叔母夫婦に会いに宮崎に行ってきた。
ふたりに会うのは、2018年12月以来なので
6年4カ月ぶりだった。
叔母80歳、叔父84歳。
ふたりとも元気そうで、特にもうすぐ85歳になる
叔父は毎日身体を鍛えているので、
85歳とは思えぬ立ち姿、身体つきで、
日々の鍛錬の継続こそが老後の健康を
担保するのだと、感じ入ったのでした。
寒くなって、歩くことも走ることもサボり気味の
私には強力な刺激となりました。
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2025.3.14
腕 時 計
十数年 使っていたカシオの G-SHOCK 。
時計を合わす必要も電池交換の必要も
ないというソーラー電池の電波時計。
海外に行っても自動で時間を合わせられるし、
格好もよくてとても気に入っていたのだけど、
いよいよ寿命のようだった。
数か月前、時計は動いていて、電波も受信し、
デジタル表示の時刻は正確なのだけど
針が受信した時刻にならないで、
2分遅れたままであることに気付いた。
針も自動で合わせるメカニズムなので、
手動では動かすことができない。
これからも少しずつ針は遅れていくだろう。
修理に出そうと調べてみたら、部品の
保存期間を過ぎていて、修理することも
できないことが分かった。
現行品で同じデザインのものを探したけれど、
似ていても微妙に違っていて気に入らない。
仕方なく、実物を見ずにネットで
カシオの wave ceptor を買った。
カッコ良さそうなものを選んで。
しかし、届いたものは、どうにも安っぽくて気にいらない。
1万円もしないものだったので、思っていたものと
イメージが違ったんだ。
やはり、実物を見てから買おうと
それから、腕時計探しの旅が始まった。
店舗で見ても「これだ!」というものが見つからず、
買わずに帰ってきたことが数回。
それで、ネットでデザインの気にったものを
ピックアップし、店舗で実物を見に行ったのだけど
10個ぐらいピックアップして見ていると、
どれが欲しいのか分からなくなって、
結局買わずじまい。
ようやく、シチズンのカッコいいやつを見つけて、
それにしようかと思ったのだけど、
それは電波時計ではない上に、
実物があまりにも重たかったので断念した。
で迷った挙句、購入したものがこれ。
CB5874-90E
定価は60,500円だけど、ビックカメラにて
4万円台前半で購入。
前述の10年以上使ったという G-SHOCK が
2万5千前後だったような気がするので、
比べると ちょっと高い時計を買ったと思う。
腕時計を買おうと決めてから、
数か月かかったけど、とても気にっている。
もちろん、ソーラー電波。
前述の買わなかったシチズンのカッコいいやつは、
10万円以上していたので、
それを理由に迷っていると 一緒にいた妻が
「(欲しければ)買えばいいじゃない」
と背中を押した。
それで、ショーケースから出してもらってみたら、
結局 重たくて、その上、電波時計ではなかったので
やめたのだけど、その時、面白いことに気付いた。
ギターなら10万でも20万でも、もっと高くても平気で
買うのに、どうして腕時計にはこんなに けち臭いのか。
人生、ギターを触っている時間より、
腕時計をしている時間の方が断然長いのに。
何だか分からないけど、深層心理に高い時計を
買うことは、不要な贅沢のように刷り込まれて
いるかのようだ。
ギターなら、色んな理由を付けて買うくせに
我ながら面白いなあと思ったのでした。
まあ、結局、時計よりギターの方が好き、
というだけなのだけどね。
初めて持った腕時計は、高校入学のお祝いに
叔母に買ってもらった SEIKO だった。
もう47年も前だけど、叔母と一緒に買いに行って、
気に入ったのを選んだら、27,000円だった覚えがある。
今回の時計を買うまでの人生最高額の時計だ。
私は何も考えず無邪気に選んだけど、
当時の物価を考えれば、もしかしたら、
叔母には 予算オーバーだったかもな。
2025.3.17
どう見えているのかしら
新宿駅で山手線に乗った。
満員というほどではないけど、
立っている乗客も多く そこそこ混んでいた。
私が立った前には西洋人らしき外国人女性
(40代ぐらいかな)が座っていた。
私がその人の前に立ったとき、
彼女が顔を上げたので、目が合った。
彼女は、自分の座っている席を指差し、
ジェスチャーで
「座りますか?席譲りましょうか?」と
聞いてきた。
私は、笑顔で断ったのだけど、
一体何歳に見えたのかなぁ。
電車内で席を譲られそうになったのは、
人生で初めてだわ。
あとでよくよく考えてみると、傘を持っていて、
それを床に突いていたので、
杖を突いているように(足が不自由な人のように)
見えたのかなとも思うねんけどね。
2025.4.5
偉大なる なかさん
3月30日のことだ。
午前2時半頃、妻の話し声で目が覚めた。
誰かと電話で話しているが、妻の話す言葉から
一瞬で事態は飲み込めた。
通話の相手は、妻の姉だ。
山形の老人ホームにいる義母の危篤の知らせだった。
義母は、その日(29日)もいつものように夕食を
食べたらしく、特に変わったことはなかったようだ。
義母が入所しているのは、特別養護老人ホ―ム。
2時間おきに職員さんが見回りをしてくれているらしく、
深夜1時過ぎの巡回の時に義母の異常
(息が荒く、目を開けたまま様子がおかしかった)が
発見され、すぐに救急搬送されたのだった。
姉さんはスマホのビデオ電話で、義母の様子を見せてくれた。
義母は、酸素マスクを装着していた。
苦しそうには見えなかったけど、目を開けたままで、
全く瞬きをしなかった。
意識はないように見えるが、そういう状態でも
声は聞こえている、という話しは何度か読んだことがある。
妻の声が聞こえているのか、話していると
義母の目から涙が溢れそうになっているのが見えた。
ビデオ電話を切ってしばらくして、再び電話があった。
3時半頃、義母は息を引き取った。
90歳だった。
足が悪く歩けなくなってから何年も経っていたし、
私が面会に行っても、誰か分からなくなっていたし、
いつ何があってもおかしくない状況だった。
あっけないと言えばそれまでだけど、
(たぶん)苦しみもせず、入院もせず、
ある意味 子供孝行な最期だった。
死因は不整脈ということだから 心臓だが、
老衰と言って良いと思う。
妻は、その日どうしても外せない仕事があったので、
山形に行くのが夜になる。
私はひと足先に山形に行くことにした。
2時半に起きたまま寝なかったのだけど、
色々準備をしていると家を出るのが9時半を過ぎていた。
10時20分ごろ東京駅に着いたけれど、
11時まで山形新幹線がなかった。
東海道新幹線とは、本数が違う。
11時発のつばさに乗って、山形の実家のある町の
葬儀会場に着いたのは、14時頃だった。
私が到着した時、姉夫婦はちょうど葬儀屋との
打合せ中だった。
その日は、お通夜ではなく、布団の上に
寝かされた義母に何人かの人が手を合わせにやってきた。
亡くなったのが義父ではなく、義母であったことは
皆を驚かせたようだった。
というのも、義父は義母より年上で、93歳。
順番からいっても、皆が義父が先だろうと思っただろうし、
女性の方が長生きというのは、一般的な話だ。
夜、妻が到着した。
その会場は、ホテルのように宿泊の部屋も併設されて
いたので、私たち夫婦は、そこに泊めさせてもらうことにした。
冠婚葬祭の風習は、地域によって様々だ。
本木雅弘が主演した映画『おくりびと』は、
山形(庄内地方)が、舞台だったが、
葬儀屋さんとの打ち合わせのとき、
「おくりびとを依頼しますか?」という話があった。
今回は送り人をお願いしなかったので、
お通夜(3月31日)のとき、参列した
近しい者達で故人の旅支度を整えた。
身体、といっても足や手、首、顔など露出している部分を
ペーパータオルで優しく拭き、足袋、脚絆、手甲などを付け、
遺体を皆でお棺に収めた。
頭陀袋を胸の上に載せ、白装束を重ね、
編み笠、草鞋、杖を持たせた。
この作業のとき、旅支度を手伝う参列者は、
腰に縄を縦結びになるように巻く。
これは、故人に連れて行かれないようにとの
意味があるらしい。
4月1日。
4月だというのに寒い朝だった。
午前9時からお別れの儀。
故人の肌に触れられるのは最後。
義母の頬はぷるぷるしていて、そして、冷たかった。
釘打ちの儀(お棺のふたを釘打ちする真似だけ)の後、
マイクロバスで火葬場へ向かう。
遺体も一緒に乗れるバスは初めてだ。
4月だというのに山形は薄っすらと積もるほとの雪だ。
確か昨年の姉の火葬の日も涙雨だったが、
涙雪なんてものもあるのだな。
火葬が始まると雪が強くなってきたような気がする。
火葬中も線香の火を絶やさないように
10分ほどおきに線香をたきに祭壇に行った。
義母は、あっと言う間に灰になった。
歩けなくなって、何年も経っていたせいで、
骨も弱っていたんだろうか、膝から下の足の骨は
ほとんど見当たらなかった。
葬儀は、お寺の都合で火葬から4日後の4月5日。
私の知る限り、葬儀の後に火葬するのが一般的だと
思っていたけれど、妻の実家の地域では、
通常、お通夜のあと荼毘に付し、そのあとに
葬儀を執り行うらしい。
葬儀に参列した者で、火葬場へ向かう
霊柩車を見送るようなことはないわけだ。
義母は、いつもマイペースで、独特な人だった。
私の人生でも、特別に個性的な人だった。
私には、全く周りの人の目など気にしていないように見えた。
中々あんな人はいないと思う。
以前は思わなかったけれど、
妻は歳を取ってきたせいか、
この頃は義母に似ているなと思う瞬間が増えてきた。
それは見た目のことだけど、妻もかなりユニークな人間だ。
義母の名前は「なか」。
本人は「子」が付いていなかったのが不満だったらしい。
そういえば、親戚の中には「なか子ちゃん」と
呼ぶ人もいる。
私たちは「なかさん」と呼ぶ。
本人に向かっては呼ばなかったけど。
今回のタイトルの「偉大なるなかさん」。
私には、妻を産み、育ててくれただけで、
偉大な人に違いない。
ありがとう、なかさん。
おやすみ、なかさん。
さようなら、なかさん。
これから、葬儀のため山形へ向かいます。
2025.4.6
偉大なる なかさん(2)
妻の母、なかさんの葬儀が昨日、執り行われた。
妻の実家のある山形の町の古いお寺の本堂で。
そのお寺の墓地には妻の両親の先祖が
並んで眠っている。
母方のお墓は、別の墓地にあったのだが、
義父がそこに移したんだ。
おかげで私たちは、一度のお参りで
父方母方両方の先祖に手を合わせることができる。
歴史のあるお寺なのは一目で分かるが、
ググってみると「寺の創建は貞観元年」とある。
「貞観元年」っていつやねん。
今度は「貞観元年 西暦」とググってみる。
「貞観」は「じょうがん」と読む。
「貞観元年」は、なんと西暦859年だ。
平安時代にできたお寺なんだ。
義父は、大工の棟梁で、弟子に限らず、
おそらく色んな人の面倒を見たんだと思う。
義母は、おかみさんということなので、
同様に義父の仕事関係者とも関わりがあったんだろう。
それは、お通夜や葬儀に参列した方たちの
様子から伺い知れる。
特にKさんは、親戚ではないのだけど、
私が「誰よりも親戚」とあだ名を付けたほどで、
葬儀の間は、膝の上になかさんのひ孫を
乗せて、完全に親族のように溶け込んでいた。
Kさん(76歳)は、義父の兄弟子の
息子さんらしいが、とても気さくで冗談を飛ばしてくれる。
ただ、方言が結構強いので、
時々何言ってるか分からない。
Kさんは義母のことを「なかちゃん」と呼ぶ。
その様子から、きっと妻の両親に世話になったと
思っているんだろうなと推測する。
妻の話では、子供の頃は常に色んな人が
家に出入りしていたらしい。
田舎ということもあるかも知れないけど、
両親の人がらを考えても、かなりオープンな
家だったんだろうと思う。
葬儀の弔辞は、孫のYちゃんが読んだ。
Yちゃんの両親(姉夫婦)は共働きだが、
その会社が、実家の2階にあったこともあって、
Yちゃんは「ばあちゃんが育ててくれた」というほど。
その弔辞が本当に素晴らしく、終わった時に
私は拍手を我慢しなければならなかった。
なかさんは、4年ほど前に歩けなくなって
特別養護老人ホームに入った。
それをきっかけに、一人になった義父は
弱っていったように思う。
2年ほど前に、脳梗塞で救急搬送され、
その後、奇跡的に義母のいる特老に
入所することができた。
施設のスタッフさんの尽力だが、
夫婦での入所は前例のないことだという。
そういうわけで、なかさんはこの2年間、
夫婦で一緒に過ごすことができた。
隣同士の部屋で、食事の時は、
毎日向かい合って。
最後の2年間を夫婦で過ごせたことは、
なかさんにとって、幸せなことだっただろう。
合掌。
2025.4.15
そろそろ 練習 再開
昨年11月にフルマラソンを走ってからも
週一ぐらいでジョギングを続けていたのだが、
冬場は、寒くてやめてしまっていた。
ジョギングの最後は12月11日。
その日のメモには
「気温は10℃を切っていたようだ。
風も強くて寒くて、走っていると鼻水も出るし、
1周でやめた」とある。
「1周でやめた」というのは、練習用のコースを
決めていて、2周走るつもりでいたのに
寒くて断念したということなんだ。
そのコースは1周が4,360メートル。
それからも、例えば青山や品川あたりから
4~5キロぐらい歩いて帰ることは、
月に数回あったけど、しっかり「歩く」「走る」という
意識で練習としてはやっていなかった。
ようやく再開する気になったので、
先日からボチボチと始めた。
11月のマラソン全体でみると、1キロあたり
9分35秒で走ったことになるのだが、
12月の練習では、4,360メートルの1周目なら
8分30秒台で走れるようになっていた。
もちろん、距離が延びればそこからどんどん
ペースは落ちるのだけど、昨年の夏、
ジョギングを始めた時のことを思うと
これは自分的には凄いことなんだ。
めちゃくちゃ遅いけど。
今日は、そのコースを1周走ったが、
いきなり張り切ったら、故障の元なので
かなりゆっくり目にジョギングしたら、
1キロ10分を超えるスローペースだった。
(歩いているのと変わりません)
これから徐々に戻していきたいと思う。
昨日は、クラプトンのコンサートの後、
武道館から歩いて帰った。
距離にして約10キロ。
5キロぐらいなら全く疲れないのだけど、
昨日は驚くほど疲れた。
100キロウォークの練習をしていた時には、
10キロなんて全く疲れなかったのに、
やはり続けていないと体力は見事に落ちるんだな。
知ってはいるけど、改めて痛感。
ジョギングでもウォーキングでも
どちらでもいいから、その日の気分で
練習と意識してやろうと思う。