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 2024年
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2024.1.8

本年もよろしくお願いします。

年が明けて、
あっという間に
1週間が過ぎた。

元旦に能登半島の地震、
2日には羽田空港の事故と、
今年は大変な年明けになった。
被害にあわれた方に
謹んでお見舞い申し上げます。

ここに書きたいことも
たまっているんだけど
なんだかやることが多くて
気持ちばかりバタバタしていて
書けないでいる。

退職したら、
あれこれゆっくり取り組もうと
思っていたことも
しばらくはお預けだな。
当分はこんな感じだろう。

そんな私ですが
今年もお付き合いください。





2024.3.4

退職して2ヶ月

昨年12月いっぱいで、18年半勤めた会社を退職した。
私は役員だったし、小さな会社なので定年はなく、
それなりの報酬を頂いていたので、まだまだ
勤めていても良かったのに、自ら辞することにした。

ちょうどコロナ禍に突入した頃から、
色々考えるようになり、今から2年ほど前に
退職を決めた。
当初は、5年ぐらいかけて徐々に
リタイアすることを想定していたのだけど、
一昨年夏、辞めることをボスに相談したら、
早い方が良いということになり、昨年末と期限を切った。

つい数年前までは、ボス(私より14歳年上)が
働いているうちは自分が辞めるなんて
思いもしなかったので、辞めようと思い出した頃は、
自分の心持ちの変化に驚いた。
まあ、一生の愛を誓った夫婦だって、数年で離婚する
わけだから、人間の心なんて無常なんだ。

辞めてからのこの2ヶ月間は、
やめる前に予想していた暮らしではなく、
なんだか時間に追われているような気がしている。
大したことは、していないんだけどね。
考えさせられることも次々と起こるし、
一日の過ぎるスピードの速さに
自分が付いていけなくなっている気さえする。
このまま あっという間に人生は終わるのかも知れない。

生活や普段付き合っている人が変われば、
人は変わるというのを、61年の人生で
何度か経験済みだけど、仕事を辞めてこの2ヶ月、
自分でも不思議なことがある。

今年に入って、この「ひとりごと」の更新が減ったと
お感じの方もいると思う。
1月も2月も5回しか更新していない。
こんなことは、2007年に「ひとりごと」を始めて
16年間で初めてのことだ。

以前は、書くことがなくてもなんとかネタを見つけては、
書いていた時期もあったし、もう16年以上も
続けていると習慣になってしまい、数日更新しないと
気持ち悪いほどだった。
なのに、退職した途端、なんだか書く気が失せたんだ。

年が明けてしばらくは、何かとやることが多くて、
自分でもそのせいにしていたんだけど、
どうもそうではなかったような気がする。
書くネタは結構あるのに、書く気にならなかったんだ。
下書きしただけで、そのままになっているエントリーもある。

今までなら、映画を観たり、落語やライヴに行ったり、
展覧会に行ったりすれば、必ずと言って良いぐらい、
ここにその感想などを書いて来たんだけど、
今年は書いていないのが、いくつもあるんだ。
1月には、桂文枝の傘寿記念落語会、
SOMPO美術館の「ゴッホと静物画」展、
東京都写真美術館の「即興ホンマタカシ」展、
「見るまえに跳べ」展、そして、ピアノ四重奏、
五重奏のクラシック・コンサートなど、いつもなら
必ずここにアップしていたことさえ、書こうとしなかったんだ。

そのほか、1月には妻の2冊の著書
『超解釈 キルケゴールの教え』が発売された。
12月に一度、その本の発売に合わせた、
クラウドファンディングについて触れたことはあったけど、
本については、書こう書こうと思いながら書いていなかった。

16年も習慣のようにしていたことが、こんなにも簡単に
途切れてしまいそうになっていることも、
驚きであると同時に自分についての新発見でもあった。
まさに諸行無常、生々流転なのだな。

そして この数日、ようやく以前のように、
「書きたい」「書こう」と思えるようになって来たんだ。
何かがあっての心境の変化ではなく、なんだか自然に。

勝手な解釈だけど、2ヶ月が過ぎ、ようやく
退職した(以前ではない)自分になって来たような気がしている。

そういう訳で、これからは、ぼちぼち以前のように
アップしていこうと考えている。
書きたいことも溜まっているしね。





2024.3.5

全国ツアー中

もう十年以上、年明けというか1月から
3月あたりにかけて、毎年開催されてきた
「新年創作の会」というイベント(講演会)がある。
この1年をどんな風に生きるか 創作しようと、
妻達が始めた会で、講師は妻だ。

十数年続いていたのだけれど、
今年を最後にすると決まり、
全国各地(合計17回)で開催される運びとなった。
で、私も妻に付いてあちこち飛び回っている。
東京(数回)はもちろん、名古屋、岐阜、博多、
長野、大阪、高松とまるでメジャーアーティストの
全国ツアーのようなのだ。
その合間に、大阪の実家に行ったり、
妻の両親(山形)に会いに行ったりもするので、
この1月2月、2ヶ月間の外泊回数は 18回に上る。
なんと4分の1以上、家で寝ていないことになる。

その「新年創作の会」も、すでに16回がおわり、
残すところあと1回になった。
3月10日が千秋楽なのだが、仙台で開催される。

このツアー、妻は当然仕事なのだが、
私は講演会の合間に、観光したり、
写真を撮ったり、高松では美術館に行ったりと
楽しませて頂いている。

何より、地方に行く楽しみは「食」だね。
博多では、モツ鍋を3日連続で食べたよ。
これが美味かった。
高松では、もちろんうどん。
これも2日連続で食べた。
初めて香川県に行ったんだけど、
うどん、やっぱり美味いんだな。
さて、仙台では何を食べるかな。



手打ちうどん植田(高松)の
肉温玉ぶっかけにいか天とちくわ天






2024.4.13

輪島お父さん金沢駅車椅子

もう3か月以上経ってしまったけど、
書いておきたいことがある。

今年元日の16時10分、能登半島を
大きな地震が襲った。
能登半島地震と呼ばれるこの地震は、
輪島市や志賀町に震度7の地震をもたらし、
大きな被害を出した。
2月29日時点の総務省消防庁の発表では、
死者244人、負傷者1,299人で、
全半壊の住宅は、約2万戸に上る。

友人Y子の実家が輪島市にあり、
一昨年は所用があってY子夫妻と
輪島を訪れ、美味しい魚をご馳走になった。
2005年にも妻とふたりで金沢へ旅行し、
レンタカーで輪島まで走ったこともある。

Y子のお父さん(91歳)が輪島の老人ホームに
入所していて、被災した。
地震後、電話は通じなくなり、安否は分からず、
無事が確認できたのは、地震から6日目の
1月7日だった。
たまたまその日にY子家族と会食があり、
その場でお父さんの無事を聞いた。

老人ホームからの電話は、無事の報告と共に
「迎えに来て欲しい」という依頼だったという。
老人ホームには、電気も水道も来ておらず、
高齢者がこれ以上 長くいるには、
難しい状況だったんだと思う。
しかし、被災地の状況をテレビのニュースで観ると、
輪島まで行けるのかどうか分からない。
救助の邪魔になるかも知れず、
東京から行って良いのかどうかも分からない。

Y子は、翌8日から輪島へお父さんを迎えに
行くという。
たまたま、金沢へ避難していたY子のいとこが
車で輪島に戻るので、金沢から車に乗せて
もらえることになったんだ。
Y子のご主人や息子たちは、翌日からの
輪島行きはスケジュールが難しく、年末で
仕事を辞めたので時間のある私が同行することになった。

1月8日の夕方、北陸新幹線に乗り、
金沢へ向かった。
金沢は、「えっ?被災したの?」と思うほど、
全く地震の影響を感じない日常のままで、
飲食店なども平常通り営業しているように見えた。
金沢駅前のホテルに宿を取り、翌朝8時40分、
Y子のいとこの車に乗り、輪島へ向かって出発した。
その日の金沢は、快晴だった。

能登半島を北へ向かう道路は、自衛隊や消防署、
救援物資を運ぶ車などで混雑していた。

七尾市あたりは、ひどい被害はないように見えたが、
北へ進むほどに傾いた家などが見られるようになった。
穴水町のコンビニは、営業をしていたけど、
断水の為、トイレは使えなかった。

輪島市に入ると、被害の大きさが見えだした。
全壊している住宅がいくつもあったし、ニュースで見た
横倒しになった鉄筋コンクリートの7階建のビルの前も通った。

被災地では、なにしろトイレが大問題。
途中、金沢で頼まれた荷物をY子の知合いの
家に届け、そこでトイレを借りた。
その家は、まだ新しい家で、地震の被害は
なかったようだが、やはり停電と断水は免れない。
トイレは、用を足すたびにペットボトルやバケツに
入れた水を流すのだが、この水が大変貴重だ。
私は、大きい方を催していたので、
ちょっと多めに水を使うことになり、
大変申し訳ない思いで一杯だった。
(ちなみにこのトイレを借りた家のご主人は、
輪島塗の関係の人で、その後、テレビの
報道番組で2回観たよ。)

結局、目的地の老人ホームに着いたのは、
15時を過ぎていた。
金沢から、7時間ほどかかったんだ。
(普段なら2時間ぐらいで着く。)

老人ホームは、建物には大きな損傷は見えなかったけど、
停電のため建物の中は暗く、屋根の雪解けの水が
破損した樋から流れ落ちていた。
ちょうど自衛隊のトラックが玄関に停まっていて、
なにか物資を降ろしている所だった。

Y子は、年末にお父さんと会ったらしいのだが、
その時は、普通に歩いていたという。
地震から1週間でお父さんは、見るからに弱っており、
自力で歩く事も困難な状態だった。
Y子が言うには、最初見たとき
お父さんだと分からなかったほどの変わりようだったらしい。

帰りは、Y子のいとこの娘さんの車を借り、
金沢まで戻ることになった。

お父さんを乗せて、金沢へ向かった。
最終の新幹線に間に合えば、その日中に
東京へ戻るプランだったが、とても間に合いそうにない。
金沢のホテルは、観光客のキャンセルが
出ていたんだろう。
当日でも、空き部屋があった。

輪島から金沢への帰り道の混み具合は、
行きほどではなかった。
しかし、暗くなってから、気が付くと前にも後ろにも
車がいなくなり、それでも走り続けると、
通行止めになっていたりして、
結局、4時間以上かかって金沢に着いた。
途中、余震が来て車を停めたり、緊張の運転だった。

往復とも、落石の為、片側通行になっていたり、
道路がひどくひび割れしていたり、隆起していたりで
徐行せざるを得ない箇所もいくつもあった。

お父さんは、疲れているのか、
ほとんどぐったりしたままで、心配な状態だった。

お父さんを金沢の駅前のホテルに降ろし、
車を返しに行って、ホテルに戻り一息ついたのは、
22時ごろだったような気がする。

翌日(10日)、9時49分金沢発東京行きの
新幹線に乗ることにした。

お父さんは、歩ける状態ではなったので、
駅まで車椅子が必要だった。
ホテルの中では車椅子が使えたので、
朝、フロントに行って「金沢駅まで車椅子を
貸し出して欲しい」と、申し出た。、
そのホテルから、金沢駅までは
ほんの100メートルほどの距離だ。
しかし、フロントのスタッフは、
「車椅子の貸し出しは館内のみです」と言った。
私は、事情を説明した。
前日、輪島の老人ホームから、友人の父親を
避難させてきたこと。
輪島には、いられないので今から東京まで
連れて行くこと。
歩けないので、車椅子がないと駅までもいけないこと。
すると、ホテルのスタッフは、責任者らしき人に
相談してくれ、快く貸出してくれることになった。

次は、金沢駅でホームまで車椅子を
借りるために駅に向かった。
駅の窓口で、気が付いた。
駅の車椅子を借りてホテルに戻れば、
ホテルに車椅子を返しに行かなくても済む。
ホテルの車椅子を借りると、お父さんを駅の
車椅子に乗せ換えたあと、ホテルに車椅子を
返しに行かなければならないのだ。
あんまり時間に余裕がないので、
駅員に掛け合ってみることにした。

「すぐそこの○○ホテルなんですけど、
そこまで車椅子をお借りできませんか?」

ホテルのフロントと同じく、
「車椅子の貸し出しは館内のみです」という回答だった。
私は、事情を説明した。
窓口の駅員は、後ろに立っている上司らしき駅員に
その事情を伝えてくれた。
が、その上司らしき駅員の答えは「ノー」だった。

私は、少し頭にきたが、冷静にもう一度
事情を説明し、車椅子を貸して欲しいと頼んだ。
ほんの100メートルのことなのだ。

窓口の駅員は、もう一度、後ろに立っている
(もう私には意地悪にしか見えない)上司に
訊いてくれたのだが、やはり「ノー」だった。

おいおい、ここは石川県だろ。
この度の地震と関係ない土地ならともかく、
石川県の県庁所在地、玄関口だろ。
それなのに、被災者をそんな扱いをするのか。
お前は、何県人だ?
JR はそんなサービスなのか?
と、声を荒げたくなったが、そんなことを
している時間はない。

結局、ホテルの車椅子で駅までお父さんを
連れて行き、ホテルに返却しに戻り、
新幹線に間に合って乗ることができた。

金沢駅では改札口からホームまでは、
駅員が手伝ってくれたし、
東京駅にもちゃんと連絡をしてくれて、
東京駅では、ホームで車椅子が待機していてくれた。
そこは、しっかりと連携があって素晴らしいと思った。
でも、その介添えの駅員も、金沢駅より東京駅の方が、
親切に感じたのは、あの車椅子貸出の一件が
あったからだろうかね。

そんなこんなで、Y子のお父さんを
東京へ連れてくることができたんだ。

大分、具合が悪かったようで、
お父さんは、そのまま数日間入院し、
その後、東京の施設に入ることができた。
あのまま、何日も輪島の電気も水道もない、
おそらく暖房も食事も十分ではなかったであろう
施設にいたら、どうなっていたか分からない。

それにしても金沢駅の対応は残念だった。
あまりにもマニュアル通りにしか対応できなくて、
血が通っていなくて、残念だ。
確かにマニュアルも大事だろう。
しかし、状況が状況なのが分からないのだろうか。
しかも、金沢駅は石川県ですぜ。
何度も言うようだけど。

なんだかひとこと言わずには気が済まなくて、
JR西日本に投書をした。
ウェブサイトに意見を送る窓口があったんだ。

一通りの事情と 残念な駅員の対応、そして、
私の失望と怒りを書いて、こう付け加えた。

「マニュアルは大事でしょうが、あまりにも
融通が利かな過ぎるのではないでしょうか?
友人は、前日の輪島往復で疲れ、
故郷である輪島の被災現場を実際に目にして
ショックを受け、そして、自力で立つことも出来ない
父親を前に動揺と不安を覚えている状態です。
この事態において、あまりにも思いやりや配慮が
ないのではないでしょうか?
ぜひとも非常時のマニュアルの運用についての改善を求めます。
そして、時にはマニュアルよりも優先すべき事があるという
人間らしい職員に教育して頂きたいと思います。
この投書は、金沢駅の駅長にも送って下さい」

「人間らしい職員に教育して頂きたい」なんて
ずい分上からだけど、そこは容赦願いたい。
投書は、1200〜1300文字ぐらい書いたんだけど、
送れるのが、1000文字以内というので、
大分削らなきゃいけなかったんで、こんな文章に
なったと言い訳しておこう。

で、1週間ほどして JR から回答があった。

「このたびは金沢駅係員の対応により、
ご不快な思いをおかけいたしまして、
誠に申し訳ございません」というお詫び。
そして、「このたびのご指摘を重く受け止め、
関係係員には点呼の場などで周知させていただきます。
今後このようなことのないよう、
応対改善に努めてまいりますので、
何卒ご容赦賜りますようお願い申し上げます」
という今後の対策ね。

これ、お約束通りの文面やけど、
私は、言いたいことを送ったから、
それだけで良かった。
なのに、余計なこと書いてきたの。

「車いすの貸し出しにつきましては、
基本的には駅構内(改札からホームまで)と
させていただいております。
しかしながら、このたびは身近なホテルであったこと、
また数10分後の列車にご乗車される点を鑑みて、
ホテルまでの貸し出しを行うべきでございました」
と。

ちゃうやん。
ホテルが近いとか、数10分後の列車に乗るとか、
そこちゃうやん。
確かに駅近のホテルやったけど、そこがポイントちゃうやん。
それ書かん方が良かったのになぁ。

ほんで「車いすの貸し出しにつきましては、
基本的には駅構内(改札からホームまで)」て
書いてあるけど、たぶんどこの駅でも(金沢駅でも)
タクシー乗り場まで、使わせてくれるよね。
改札から、タクシー乗り場まで「歩いて行け」とは
言わんやろ?
だから「基本的には」と書いているんやろうけど、
あの場合も現場の判断で対応できたんちゃうかと思うのですよ。

ということで、この回答にも苦言を送りました。

「ご返信いただきありがとうございました。
ご回答を読ませて頂きましたが、
私の書き方が悪かったようで、
投書させて頂いた意図が伝わっていないようでした。
(中略)
私が言いたかったことは、被災地石川県の駅でありながら、
被災者の心に寄り添わないその非情な態度への苦言でした。
再度、乗客、特に被災者など通常ではない乗客への
『思いやり』について考えて頂きたいと思いました。
よろしくお願いいたします」

言葉が「非情な態度」とかキツなってるやん。
こうなると、相手にすれば、もうめんどくさいクレーマーかしら。

この2通目には、もう回答がないよ。
言いたいこというたから、なくて ええねんけど。

ちょっとは有事の際の対応について、
考えるきっかけになってくれたらええねんけど、
どうやろなあ。


ところで、輪島から戻って数日は、
自分で分かるほど、心が不安定だった。
輪島では、老人ホームでお父さんを乗せて
とんぼ返りだったので、時間も心も余裕がなく
Y子の実家の様子も見なかったし、
朝市の火災の跡も見ていない。
行き返りの車の中から見た被災の様子は、
目の前にある現実なのにリアリティがないという感じもした。
あれは、おそらく心が感じないように
衝撃をブロックしていたのかも知れない。

輪島から戻った翌日のこと、恵比寿のカフェで
コーヒーを飲んでいたら、その前日、前々日の
体験と 東京の日常のあまりのギャップを
心が処理しきれていないような感じで、
道行く人々の平和な光景にわけもなく
涙が出てきて、自分でも驚いた。

「ああ、あんまり分かってないけど、
深い所で、かなり衝撃を受けてるんや」と思った。
もし、朝市の焼け跡とか見てたら
もっと酷かったかもしれない。

自衛隊、消防、警察、医療関係など、
救助や支援の方々には本当に頭が下がる。
きっと、私の体験などとは比べ物にならないほど
衝撃的な光景をたくさん目にしていると思う。

そして、被災地からどこかへ避難した人も、
被災地に残る決断をした人も、
みんな心の傷を負っていることでしょう。
どんな言葉をかければ良いのかも分からない。
癒しは時間しかないのかも知れない。
それでも生きるしかない。
そして、東京にもいつ大地震が来るのか分からない。
自然の前に人間は無力だけど、
「思いやり」という力は持っていたい。







 ひとりごと