2025年 エッセイ
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2025.1.5
哲学について
先日読み終えた『落語―哲学』が、
面白かったので、著者・中村昇氏の
2003年に出版された『いかにしてわたしは
哲学にのめりこんだのか』を買った。
読み始めて50ページで挫折した。
頑張って最後まで読もうかと思ったけれどやめた。
50ページ読んで、理解出来たのは、
せいぜい2割か3割だろう。
サンドイッチマンではないけど、
「何言ってるか分からない」んだ。
この人がどうして哲学にのめりこんだのか、
哲学はのめりこむほど面白いのか、と
期待して買ったのだけど、難し過ぎるねん。
50ページまで読んだ内容は、主に
ウィトゲンシュタイン(オーストリアの哲学者)
の批判なんだけど、このウィトゲンシュタインが
言っていることが分からないので、
その批判も分かるはずがない。
出版社のサイトでは「品切れ・重版未定」と
なっており、ほぼ絶版状態だったので、
中古本で買った。
もともとの定価は2500円+消費税なのだが、
安くはなっておらず、Amazonでは
ほぼ定価(税込2500円)だった。
私が2500円のものを買ったために、
今では一番安くて5000円。
高い物は7000円を超えている。
二束三文で売られている中古本も多い中、
専門的な人たちにとっては価値が
あるということだろうか。
数が少ないからだろうか。
送られてきた中古本は、
ほぼ新品のような美品だった。
私のように読めなかった人が、
もとの持ち主だろうかね。
そんなことはさておき。
この本のような内容が理解出来ないと
学問である哲学は語れないということなのかな。
別に「学問哲学」を語れるように
なりたいとは思わないけど。
「学問哲学」と書いたけど、
学問ではない、もっと日常の暮らしに関わる、
生きている限り誰にでも関係のある
哲学もあると思う。
それは、仕事や人間関係など、
日々の暮らしに直接現れる問題として、
考えなければならない分野のこと。
一般的にそれらをわざわざ哲学と
言わないけれど、そのことも「哲学」と
呼ぶ(区別する)ことで整理され、
発展・進化があるように思う。
妻は市井の人々に向けて、サルトルや
キルケゴールの超解釈本を出して来た。
これは「学問哲学」ではなく、「日常哲学」とも
言えるもので、専門的な知識や土壌がなくとも
誰しもが、学び、語れるものなんだ。
もちろん「学問哲学」の背景があった方が、
より深く考えることは出来るかも知れないけど、
なくても最低限の区別さえあれば
「日常哲学」は可能だ。
「日常哲学」とは、何か。
(本当はもっと違う表現を探しているけど、
思いつかないので仮称。)
ちょっと違う観点から考えてみる。
哲学はもちろん、例えば、数学・科学・化学・
医学・社会学など「学」がつく学問は多い。
ところがなぜか「音楽」には「学」がない。
「音楽学」でもなく「がく」という言葉に
「楽」なんて漢字を充てている。
「音学」という言葉は、聞いたことがない。
音楽を作曲したり演奏したりするための
ルールや知識、いわば音楽・楽譜の
文法のようなものは「楽典」と呼び、
面白いことにここでも「学」という文字は使われない。
楽典は音楽理論とも言われるし、
楽典を知ることは、学ぶことに他ならないから、
学問と言って差し支えないと思うんだけどね。
音楽には、楽典の他にも、音楽史であったり、
楽曲のアナライズであったり、演奏以外にも
学問的なことは存在している。
小学校の音楽の授業では、楽譜の読み方
(楽典の基礎)を習うし、クラシック音楽の
歴史(音楽史)を学ぶ。
それらを、音楽の授業で学ぶけれど、
実はそれは「音楽」とは別の分野として存在している。
では「音楽」とは何かというと、
演奏(歌唱も含む)と鑑賞なのだ。
拡大しても作詞作曲編曲までかな。
小学校に入ると数(算数)の時間に
数の数え方、数字の書き方を習うけど
それままだ数学ではないように、
楽典は音楽に関することではあるけれど、
音楽自身ではない。
なぜなら、楽譜が読めなくても、
楽典を知らなくても、音楽を演奏することは
出来るし、実際にそういうミュージシャンはいる。
聴くだけなら、何も知識など必要がない。
知識がなくても、鼻歌で作曲することだって出来る。
音楽とは、作ること、演奏すること、聴くことなんだ。
で、哲学に戻る。
哲学にも必要な区別がある。
いや必要ではないかも知れないけど、
知っていた方が良い区別はある。
例えばサルトルであれば「即自存在」
「対自存在」「投企」「アンガージュマン」といった
区別は、数学であれば数字を覚えたり、
加減乗除を覚えたり、
国語であれば文字を覚えたり、
音楽であれば楽譜の読み方(楽典)を
覚えたりするのと同様に
その分野の基礎的な知識だと思う。
それらの区別・抽象を分かった上で、
日常の暮しを哲学すれば、より深く
考えることが出来るし、
世界が広がるのではないかと思う。
妻は、哲学を広めたいと思っている。
私も「学問哲学」ではなく、「日常哲学」が
もっと広がればよいし、子供たちに
学校で教えればよいと思っている。
しかし「哲学」と聞くと、ほとんどの人が
「難しい」「理屈っぽい」「役に立たない」と
引いてしまうんだな。
「学問哲学」は確かに難しいけど、
「日常哲学」は面白いし、役に立つんだけどね。
これが世の中に一般的に拡がるためには
同じ「哲学」ではなく、違う呼び名が必要だと思う。
哲学には、経営哲学や政治哲学、宗教哲学など、
「哲学」がつくものも多いが、
物理学や心理学などが哲学から発生して
いったように、「日常哲学」にも「哲学」が
つかない呼び名があれば良いと思う。
できれば「学」がつかない言葉で。
「哲学」は英語で「フィロソフィー」。
語源は、は古典ギリシア語の「フィロソフィア」で
「知を愛する」という意味らしい。
武田康弘先生はフィロソフィーを
「恋知(れんち)」と訳す。
明治時代に西洋から日本に「フィロソフィー」が
やって来た時、西 周(にし あまね)という
人が「哲学」という言葉(漢字)をあてた。
「哲」という漢字は「あきらか。道理にあかるい。
かしこい。またはその人」という意味。
「恋知」も良いけど、直訳じゃない言葉を
探している。
以前「哲楽(てつがく)」っていうのを
思いついたんだけど、すでに使っている人がいたよ。
2025.1.17
阪神・淡路大震災から30年
1995年(平成7年)1月17日(火曜日)、
午前 5時46分52秒、後に「阪神・淡路大震災」
と呼ばれることになった地震が発生した。
あれから今日で30年が過ぎた。
あの日は、月曜日の早朝だったとばかり
思い込んでいたが、火曜日だったんだね。
15日の成人の日が日曜日だったため、
16日が振替休日だった。
それで17日が月曜日と勘違いしていたんだな。
当時、私は東大阪市高井田西の
小さなマンションの2階に一人で住んでいた。
地震が発生した5時46分はまだ起きていた。
8時には起きなければならないのに、
夜更かししていて「2時間しか寝られへん」と
思いながら、布団に入った矢先のことだった。
神戸ほどではないにしろ、東大阪でもそれなりに揺れた。
結構長い時間だったと記憶している。
自宅に大きな被害はなかったけど、
台所のタイルの一部が割れて落ちた。
その日は、寝ずに出勤したんじゃなかったろうか。
家の近所の瓦屋根が落ちいてたり、
大通りに出ると、銀行のガラス窓が割れていたりした。
後日、地下鉄の通っている大通りの上は、
地下鉄の空洞のせいで、揺れが大きかったと
聞いたが、真偽のほどはわからない。
その日、仕事は普通にしたような気がするが、
高速道路は閉鎖されていおり、
道が混んでいた覚えがある。
夜、大阪厚生年金会館で行われる、
BAHO(Char & 石田長生)のコンサートに
行く予定だったが、当然延期された。
災害関連死を含むと、死者は6,434名、
負傷者は、43,792名 となっている。
大勢の人が亡くなったんだ。
高速道路の横倒しなんて、
もう二度と見ることはないだろう。
地震からしばらくは、神戸方面に出かけると
壊れかけたビルを目にすることも
珍しくなかった。
神戸の方では、冷蔵庫が逆さまになって
立っていたという話も聞いた。
神戸のホテルでコックをしていた人からは、
その時間、調理場で朝食の準備をしていたら、
業務用の大きな冷蔵庫が、歩くように
ドンドンと迫ってきたという話も聞いた。
大阪ガスに勤めていた人からは、
復旧工事のため、2カ月だったか3カ月だったか、
家には帰れず、残業手当で給料が
凄い金額になったという話も聞いた。
昨日、日本赤十字社によるアンケートでは、
阪神・淡路大震災を「全く知らない」と
答えた人が、10.7%という結果を伝えていた。
まあ、10代 20代なら仕方がないとも思うが、
40代で 10・5%、50代で 5・0%、
60代で 2・5%の人が「全く知らない」と
答えているらしい。
その年代なら、発生した日付までは
覚えていなくても、地震があったことぐらいは、
覚えていても(知っていても)良さそうだと
思うけど、違うんやな。
まあ住んでいる地域にもよるやろけどな。
災害の直後は、防災意識が上がるけど
すぐに麻痺してしまうのは、人間の
良さであり、弱さでもある。
私は先日、ソーラーパネル付きの
ポータブル電源を購入したよ。
停電になっても太陽光で充電できるタイプね。
持ち運びも出来る大きさ重さで、
非常時以外にもアウトドアや電源のない場所で
使い道がありそう。
災害では使う日が来ないことを祈るけどね。
地震の後に断水し、トイレに困るというのは、
よく聞く話で、非常時用のトイレも
東日本大震災の後に買って、
備蓄してあるけれど、使ったことはない。
防災グッズも進化しているから、
見直さなきゃな。
The Diver
「クーリエ・ジャポン」は、「2024年に世界が注目した
日本人」ということで、10のカテゴリーでそれぞれ
10人ずつを選出した。
「音楽・映画部門」では、1位に小澤征爾。
黒澤明や Adoの名前もあるが、
半分(5人)は 私が知らない人だった。
「社会・報道部門」の1位は、伊藤詩織。
昨年公開された、自身の闘いを描いた
ドキュメンタリー映画『ブラック・ボックス・
ダイアリー』が数々の映画祭で18の賞を
獲ったらしいのだが、日本での報道は
見たことがなかった。
伊藤詩織以外に 「社会・報道部門」に
名を連ねている人で知っていた人は、
袴田事件の袴田巌、ドキュメンタリー映画監督の
山崎エマだけで、残りの7人は名前を見ても
知らない人たちだった。
いかに自分が世界を知らないかが露呈してしまう。
その中に、高松康雄という人の名があった。
「潜水士」と書かれていた。
2011年に起きた東日本大震災では、
いまだに2500人もの人の遺体が発見されて
おらず、行方不明のままだという。
高松さんの奥さんも津波で流されたとみられ、
彼は2013年からダイビングを始め、
潜水士資格を取り、海に潜り続けている。
彼のドキュメンタリー映画がある。
9分ほどなので観てください。
↓
『The Diver』
2025.2.4
2025
今年は西暦 2025年。
その「2025」という数について、
ネットで読んだ、役に立たないけど、なんか面白い話。
「2025」は、平方数だ。
中学の数学で習ったんだろうけど
完全に忘れている平方数。
ある数字の二乗であることを平方数というのだけど、
2025は、45番目の平方数。
つまり、そのルートは「45」。
(45×45=2025)
(平方根というときは「-45」も含む。)
西暦が、平方数であった前回はというと
(44×44=)1936年だったわけだから、
平方数の西暦は 89年ぶりなんだな。
そして、次の平方数になる西暦は、
(46×46=)2116年なので、91年後。
2025のルートが「45」と書いたけど。
この「2025」という数を二桁ずつ分けると
「20+25」で「45」になる。
(20+25)×(20+25)=45×45=2025
こんなことになるのは、1000年後の
3025年なんだ。
(30+25)×(30+25)=55×55=3025
さらに「2025」という各数字に「1」を足すと
(2+1), (0+1), (2+1), (5+1)
「3136」という数になるけど、これまた平方数なんだ。
3136=56×56
次にこんなことが可能になる年は、11200年後の
13225年!(13225も平方数。)
「13225」の各数字に「1」を足すと「24336」。
24336=156×156
こんな風に「2025」という数字は
面白い数なんだ。
まだまだあって「1から9の立法数の和が2025」なる。
(1×1×1)+(2×2×2)+(3×3×3)+......+(9×9×9)
=2025
さらに!
九九表の81個の数、つまり1の段から
9の段まで 81ある掛け算の答えを
全部足すと「2025」になる!
そして、九九表の数の平均は「25」で
数字は全部で「81」個あるので、
「25×81」も「2025」になるんだ。
「2025」は、そんな特別な数字だったんだ。
2025.2.21
礼儀と親切について
昨日今日と大阪に帰省していた。
今日、大阪から東京に戻る新幹線の中でのこと。
私は、D席(通路側)に座っていた。
名古屋で隣りの E席(窓側)に
座っていた男性が降りた。
駅の手前で、男性は席を離れたので、
私はテーブルを倒して手帳にメモを書いていた。
名古屋駅で入れ替わりに
20代と思しき若い男性が乗ってきた。
彼が私の横に立ったので、E席に座るのだと思い、
すぐにテーブルを戻して、彼が席に座りやすい様に
足を引っ込めた。
彼は、スマホや小物を席に置き、
荷物を網棚に置き、そしてロングコートを脱いだ。
大した時間ではなかったけど、
その間、私はじっと同じ姿勢で待った。
彼は、何も言わず、会釈をするでもなく、
つまり私がいないかのように自分の席に着いた。
別に礼を言われたい訳ではないし、
腹が立つほどのことでもないのだけど、
普通は「すみません」とか「ありがとうございます」とか
言うよなぁと思った。
何かが気持ち悪かった。
まあ、そういうことが言えない人もいるし、
彼は大きなヘッドフォンをして何かを聴いていたので
「ここ」にはいなかったのかもな。
こういうの、自分も無意識のうちに
やっているかも知れないなぁとも思った。
昨日のこと、歩いていると、
老人(男性)が倒れたようで、
奥さんらしき老女が腕を持って
立たせようとしているところに遭遇した。
老人は大きな人ではなかったけれど、
その老女がとても小柄だった。
私は思わず「大丈夫ですか?」と声をかけ
男性を立たせるのを手伝った。
すると、目の前で見ていた若い男性も
一緒になって、立たせる手伝いに参加してきた。
男性の老人を支える手が、私よりもよっぽど
積極的だったため、私は自然と手を離した。
そこへ、少し離れたところから、今度は
50歳ぐらいの別の男性が声をかけてきた。
「大丈夫ですか?車で送りますよ」と。
見ると男性の後ろには、
大きなワンボックスカーが停まっている。
老夫婦は、一瞬迷ったように見えた。
私は(無責任に)「送ってもらったらいい」と言った。
別に私が言ったからではないと思うけど、
老夫婦と介抱していた若い男性は、車の方に歩き出した。
若い男性が老人をしっかり抱えているので、
私はやることがなくなり、その場を離れた。
ほとんど何もしていないのに、なんだか気分が良かった。
何より、あの場面で「車で送りますよ」という人の
出現が良かったな。
アメリカでは、倒れている人を見ても近づかないと
聞いたことがあるけど、日本人はまだまだ親切だ。
老夫婦は「家がすぐそこです」というようなことを
言っていたけど、もしめっちゃ遠かったらどうすんのやろ。
それでもあのおっちゃんは、送るんやろな、と思いたい。
2025.4.20
どちらの方向に行かれますか?
私は、今まで一度も職務質問なるものを
受けたことがない。
警察官に声をかけられるのは、せいぜい
自動車運転中の検問ぐらいだ。
永田町あたりは、国会議事堂や政府関係の
建物が多く、いつも警備の警察官が多い。
先日、武道館から歩いて帰ろうと永田町を
歩いていたところ、警備に当たっている
若い警察官が、会釈をするので私も返すと
「どちらの方向に行かれますか?」と聞いてきた。
私は、質問の内容が可笑しかったので
笑いながら、歩いている方向を指差し「こっち」と答えた。
警察官は「まっすぐ行かれますか」と答えた。
私は「はい」と答え、立ち止まることもなく歩き続けた。
毎日毎晩、国を守って頂きありがたいことである。
私がなぜ可笑しかったかというと、歩いている人に向かって
「どちらの方向」もないだろうと思ったからだが、
思うに勿論、警察官の質問の意図はその内容ではないだろう。
私の挙動から不審者かどうかを見抜く為だろうと思う。
相手はプロだ。
その僅かなやり取りから、私に不審な点があれば
もっと突っ込んで話しかけてくるのかも知れない。
警察官が、パトカーの中から目をそらしただけの
動作で犯罪者を見抜き、逮捕に繋がったという
ドキュメンタリーをテレビで観たことがある。
私が、一度も職質を受けたことがないのは、
清廉潔白に見えるからだと思うがどうだろう。
清廉潔白。
改めて意味を調べてみると
「心や態度が美しく清くりっぱで、
私利私欲がなくよこしまな気持ちを
一切もたないこと」だそうだ。
うーむ、そんな人がいるのか。
私は清廉潔白ではないわ。
たぶん「怪しくない」という程度です。
若い頃は、怪しい人に見られたい時期もあった。
怪しいというか、個性的というか。
今から考えるとちょっと恥ずかしい。
ところで、このところエリック・クラプトンの
コンサートで、武道館を何度も訪れているが、
入場する際にもぎりの人が必ず
「危険物はお持ちじゃありませんか?」
と訊いてくる。
私は「はい」とだけ応えるが、
なんとナンセンスなマニュアルだろうと思う。
もし、人を傷つける目的で危険物を
持っていたら「持っています」というわけがない。
これは、先ほどの警察官とは訳が違う。
そのもぎりの人は犯罪の専門家でも何でもない。
もしかしたら、アルバイトかも知れない。
本気で不審者を見つけるための質問を
しているとは到底思えないのだけど、
私の考えは間違っているだろうか。
おまけに入場時に非常に形式だけの
荷物検査がある。
鞄を開けて中を係員に見せるのだが、
上から覗くだけでほとんど意味がない。
危険物は簡単に隠せるだろう。
危険物だけではなく、カメラや録音機なども
チェックの対象だろうが、今ではそれらも
小型化され簡単に持ち込めるだろう。
今回のクラプトンのコンサートでは、
第一夜、二夜は、その形式的なチェックを
していたけれど、なぜか昨日一昨日は
そのチェックがなくなっていた。
無駄だと気付いたのかしら。
今のような小型のデジタルの録音機がなかった
80年代は、録音できるカセットテープの
ウォークマンを辞書のカバーに潜ませて
コンサート会場に持ち込むのが、
隠し録りする人の手口だった。
若いから学生のふりをすれば
辞書を持っているのも不自然じゃないんだ。
そういえば先日、大阪の万博会場で
手荷物検査の時、「リュックの中は爆弾だ」と
言ったじいさんが逮捕されたというニュースを観た。
80歳のじいさん、楽しみにしていた万博で
テンションが上がってしまったんやて。
絶対ふざけてはいけない場面やのにな。
永田町の警察官の話に戻ろう。
あんな風に一晩中(?)警備のために
立っているのは、しんどい仕事だろう。
事件が起こらない限りは、
ほとんど立って見張っているだけの仕事だ。
時には、怪しくなくても歩行者に
話しかけたくなるのかも知れない。
いや、待てよ。
もしかしたら、怪しかったのか?
2025.4.22
ベアフットシューズ
先日読み終えた書籍『歩く マジで人生が変わる習慣』
(池田光史 著)の影響で、ベアフットシューズや
ミニマリストシューズと呼ばれる靴に興味を持った
ベアフットシューズも値段が様々あるが、
ネットで試着なしに高価なものを買うのは
考慮があるので、試しに Amazon で
HOBIBEAR というブランドの安いものを買ってみた。
(3,192円税込)
ベアフット(barefoot)とは「裸足」の意味で、
ミニマリストとは、余計なものを削ぎ落としたという意味。
つまり、両方とも意味するところは、
現代の靴に付加された余計な要素を取り除き、
裸足で歩いているかのような靴ということだ。
具体的にほ、かかとが高くないこと
(かかととつま先の高低差がないものを
「ゼロドロップ」という)や
クッション性が抑えられていること、
靴底が柔らかく自由に変形すること、
そして靴の形が足の形をしている点だ。
靴底が柔らかい
現代の、特にファッション性を追い求めた靴は、
先が尖っていて足の形をしていない。
「現代の纏足(てんそく)」とまでいう人もおり、
履き続けると外反母趾になることもあるようだ。
またクッションやかかとが少し高いことは、
歩いたり走ったりするのに楽なのだがその分、
足の筋肉を使わないというデメリットがある。
特にかかとから着地してしまう靴は要注意だと、
件の本には書いてあった。
これら靴の進歩は、本来の人間の足の
ポテンシャルを充分に引き出さないことが分かってきたのだ。
といって、現代的な靴に慣れた人が
いきなりベアフットシューズで長距離を歩くと、
これはこれで足を痛める原因になりかねないらしい。
クッションのないことに徐々に
身体を慣らす必要があるということだ。
そういうわけで、履きなれていないのに
ベアフットシューズでいきなりの長距離ウォークや
ジョギングは危険なので、慣れるまでは、
様子を見ることにして、少し歩いてみた。
最初の印象は、小中学校の上履きを思い出した。
そういえば、上履きはゼロドロップだっただろう。
履き心地は、足の指が自由で楽だ。
しかし、足の裏に着地した時の衝撃がダイレクトに伝わる。
確かにこれでいきなり走ったりしたら、
故障の原因になりそうだ。
それだけの衝撃を靴のクッションがやわらげてくれて
いるということだが、それは人間の持つ本来の
力を発揮させていないことでもあるんだな。
産業革命以前の人間は、
一日に3時間も座っていなかったらしい。
狩猟採集民だった頃は、一日に15キロは
歩いていたらしい。
それが今や睡眠時間よりも長い時間、
座っている人もいる。
身体はそういう風に作られていなかったのに。
私もデスクワークが多かったし、今も
PC の前に座っている時間がそれなりに長い。
歩かねば。