LAGUNA MOON MELLOW FLAVOR  LIVE GUITAR  LINK LYRICS



2024年 エッセイ

    感想・ご意見は→ shinya◇shin223.com
    メールをくださる方は、上記アドレスの◇を@に変えて送ってください。(スパムメール対策)



2024.3.25

「おめでたい」を創作する

もう30年以上前、あるセミナー会社の
トレーニングに参加していた。
そのトレーニングでは、多くのことを学ばせて頂いた。

トレーニング中の忘れられないことのひとつに
こんなことがあった。
内容は覚えていないけど、
ある時、コーチが私に「おめでとう」と言った。
その時、私はそれがどうして「おめでとう」なのか
分からなかった。
自分ではおめでたいことではなかったんだな。

なぜ「おめでとう」と言われるのか
分からなかった私は、コーチに質問した。
「なぜ『おめでとう』なんですか?」と。
するとコーチは、こう言った。
「おめでたいことに創作するんだよ」。

ところで、私達は誰かの卒業や入学、結婚・
出産などの際、何の疑問もなく「おめでとう」と言う。
「何の疑問もなく」というのは、それが本当に
おめでたいことなのかどうかの検証をすることもなく、
なぜそれをおめでたいこととするのかという疑問もなく、
「おめでとう」と言うのだ。
誤解を恐れずに言うなら、
これはある意味思考停止だと言える。

「何を言っているんだ、おめでたいに決まっているだろ」
という声が聞こえてきそうだ。
めでたいか どうかなんて考えるまでもなく、
子供の成長や人生の門出は、
めでたいに「決まっている」ということだろう。

なぜ、人生のそれらのイベントの際、
私達は疑問もなく、言ってみれば無意識に
「おめでとう」と言えるのだろうか。
なぜ、めでたいと決まっているのだろうか。

それらは、私(達)個人のことではなく、
長い歴史の中で慣習となり、慣例となり、
私達の無意識に刷り込まれたことなんだと思う。

だから、「当然のこと」なんだ。

そして、違う観点から見ると、
私達はいつもそれらの人生のイベントについて
(無意識のうちに)おめでたいことに
創作している、とも言える。
ただ、慣習慣例になっているがために、
新たな創作は必要ない、ということだ。
それを創作と呼べるかどうかは、微妙だけど。

そう考えると自分次第で、どんなことであっても
「おめでたいこと」にすることは、可能なんだな。

あれから30年以上経って、
ようやく「おめでたいことに創作するんだよ」の意味が
分かったような気がする。

毎日、生きていること、今朝も目覚めたことだって
十分におめでたいことじゃないか。





2024.3.27

豚の腎臓

先日、ニュースで観たのだけど、
アメリカで62歳の男性に豚の腎臓を
移植する手術に成功したらしい。
そのニュースでは、男性は順調に回復しており
退院に向かっているとのことだった。
この手術には、日本人医師も関わっており、
その人がインタビューで話しているのも観た。
しかし、過去に豚の腎臓を移植した例は2件あり、
2人とも手術後数ヶ月で死亡したらしい。

医学の発展のおかげで、救われた命がたくさんあるだろう。
それは間違いない。
腎臓移植を希望しながら、叶えられず
亡くなる人も多いことを考えると、
豚の腎臓もありなのかも知れない。

いや待て、ありなのか?

自分が、その立場になったらどうするんだろう。
生きるために、豚の腎臓を移植するだろうか。
ここで、その答えを書くのはあまりに早計過ぎる。
その是非を問うのも、簡単な話しではない。

多くの人が指摘するように
私達は、医学の進歩のダークサイドについても
考えなければならないと思っている。

ところで、「豚の腎臓」と検索したくて、
Googleに「豚の」と入れると、
トップに上がった検索結果の候補は何だったと思う?

「豚の角煮」だったよ。
このニュースの前は、誰も「豚の腎臓」を
検索しなかっただろうな。

「豚の腎臓」と「豚の角煮」の背景が、
あまりにも違い過ぎて、なんだか気持ち悪くなった。







ひとりごと