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2019年 エッセイ

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2019.1.13

映画『みんなの学校』
木村泰子 元校長先生 講演会


2015年3月に『みんなの学校』という
ドキュメンタリー映画
を観た。
大阪市住吉区にある不登校児がいないという、
公立の小学校で、こんな学校があるのかと
驚いたものだった。
当時、校長を務めておられたのが木村先生だった。

今日は、その木村先生の講演会に行ってきた。
主催は、アイアイ・スクールという妻たちの
グループだが、昨年、妻たちは偶然、
木村先生と出会い、この講演会にまで辿りついた。
木村先生の教育理念と、アイアイスクールが
広めようとしている「SQ教育」が一致したのだ。

講演の内容は、予想・期待をはるかに上回る
素晴らしいもので、全国から講演の依頼が
なくならないというのも全くうなづける。

映画『みんなの学校』の番外編というか
裏話のような話も聴けたし、
木村先生の人柄も魅力的だった。
笑いの中に深さのあるトークは、
一貫性のあるブレない考え方から
来ているのは明確で、
いつまでも聴いていたいような、
ホントに素晴らしい講演だった。

原稿を用意せず登壇して、その場で
出てくることを話す、という木村先生。
もちろん、膨大な経験、そこで培われた話術、
その引き出しの多さ、臨機応変さなどが
あってこそ、原稿なしで大勢の人の前に
立てるわけだが、ふと一流ジャズ・プレイヤーが、
曲目を決めずステージに上がることを連想した。
どちらも、「今」を大事にし、
聴衆とのコラボで創りあげているからね。

木村先生が講演活動を続けておられても
日本の教育現場の状況は、
そんなに簡単には変わらない。
古い価値観、古いやり方、考え方が
そう簡単に変革されるわけではない。

何を隠そう、今日の講演を聴いて、
私がその古い考え方(昭和の教育の結果)の
固まりであるということを思い知らされ、
少々ショックでもあった。

「正解はない」なんて、充分知っているつもりで、
正解を求める大人を半ばバカにしていたけど、
私自身が、まだまだ無意識に正解があると
思っていることを発見しビックリ。
こりゃ、まだまだですわ。

木村先生が、普通だと思っていることを
私は、まだまだ普通だと思っていない。
どこかで特別なことと(知らないうちに)
決めてかかっている。
まずは、その認識を変えることから始める
必要があると思ったのでした。

本も数冊出版されているので読んでみよう。


みんなの学校





2019.4.22

平成の終わりに

平成も残すところ、あと8日となった。
昭和の終わりには、感じなかった
言葉にしづらい何かを感じている。

昭和から平成に変わったとき、
私はまだ26歳の若輩者で、
元号が代わることの意味も、
天皇が代わることの意味も
よく分からなかったし、
深く考えもしなかった。
今だって、よく分かっていないと思うけどね。

若いころは、天皇陛下に対して、
なんの思いも感慨もなく、
あまりに遠い存在で、自分には
関係のないような気がしていた。
だから、テレビで天皇や皇后を見ても
特になんとも感じなかった。

それが、いつ頃からか、特に平成天皇が、
被災地などを訪問されている姿を見るにつれ、
何かを感じるようになった。
それは「尊い」ということなのかもしれない。

私は皇室ファンというわけではないし、
その変化がなぜ起こったのかは分からない。
単に私が年を取ったということだけでは
ないような気がしているが、説明はつかない。

遠い存在だと思っていた天皇が、
被災地の避難所で、ひざまずいて
被災者と話される姿は、昭和の時代には
見たことのない姿だった。
そんなことが変化の要因にあるのかもしれない。

今日、朝日新聞デジタルの「祈りの旅」という
特集を読んだ。
天皇・皇后両陛下が、平成に訪問された、
被災地や戦地などの特集記事だ。
宮内庁提供のビデオもある。

記事の冒頭に
「国内外の戦地へ、自然災害の被災地へと、
天皇、皇后両陛下が平成を通じて
歩み続けた『祈りの旅』をたどります」とある。

読むと、なぜか分からないけど、泣けてくる。
一体、これは何だろう。
そして、天皇を退位されるにあたり、
感謝の思いを表す適当な言葉が見つからない。

祈りの旅(朝日新聞デジタル)
(内容)
1991.07 雲仙・普賢岳噴火
1993.04 沖縄
1994.06 米国
1995.01 阪神大震災
2000.05 オランダ
2005.06 サイパン
2011.04 東日本大震災
2015.04 パラオ
2018.08 終戦記念日
2018.11 北海道地震
1989 - 2019 祈りの旅





2019.5.25

自 由

先日深夜、NHK の『世界の居酒屋』という
TV番組を観ていた。
パリ11区にあるという居酒屋の特集だった。

ワインに合うの豚の血が入ったソーセージとか
食べてみたいようなみたくないような、
料理を紹介していた。

年に一度のパリの「音楽の日」、
店の前の通りでは、様々な音楽演奏される。
居酒屋の主人は、道行く人にビールを売る。
ビールを売りながら、自身もゴクゴク飲んで、
超上機嫌で音楽にノリノリだ。

あまりにもたくさん飲むので、
番組側が、彼の奥さんに向かって
「ご主人、飲み過ぎじゃありませんか?」と
質問した。

その奥さんの答えが素晴らしかった。

「その質問に答えるの?
彼には好きなことをする権利があるのよ。
彼は自由なのよ。」

さすがは、自由と平等を重んじる国民。
これは、国民性の違いなのだろうな。
日本の同じ状況なら、ほとんどの奥さんが
「そうなんです、いつも飲み過ぎで困っています」
とか「体に悪いので飲み過ぎないでって言っても
聞いてくれないんです」とか言いそう。
(私の偏見でしょうけど。)

彼女の回答を聞くと
「飲み過ぎじゃありませんか?」と
奥さんに訊くことが、まるで、
非常にナンセンスであるかのようにさえ
思えてきた。
おそらくフランス人の口からは
そんな質問は出てこないのだろう。
日本人(私も含めて)は、人のことに
口を出し過ぎるのかもな。

昨年出版された妻の著書がサルトルに
関係しているので、秋に パリに
サルトルの墓参りに行くのだが、
なんだかパリ旅行の楽しみが倍増した。
あのお店探してみようかな。

「音楽の日」に関しては、
広岡祐一さんというギタリストが、
面白いことを書いていた。
ここにもフランス人と日本人の違いが
表現されていて、興味深い。
ご興味のある方はどうぞ。

~パリの「音楽の日」~





2019.6.13

う ぬ ぼ れ

出来ることならやった方がいいと
分かっているのにやれていないとか、
やりたいと思っているのに
やれていないことに対し、
悶々とすることはないだろうか。
それが「うぬぼれ」だとは
この年になるまで知らなかった。

ちょっと前のことだが、
A さんが、やりたいのにやれていないこと
(やった方が良いと思っているけど、
やれていないこと)で、悩んでいた。
私は、その気持ちはよく分かるし、
やれていなくても、「やりたい」
「やった方が良い」と思っている方が、
「やろうと思わない」よりは、
ましだと思っていた。

そんな A さんに向かって、
人生の先輩である B さんは
「うぬぼれだ」と言った。

出来もしない、やれもしないことを
いっぱいできない理由(言い訳)を
並べているだけだと。
その理由さえなければ、さも、
やれるかのような振りをしているが、
とんでもない食わせ者だと。

うぬぼれ・・・。
う~ん、耳が痛いな。
自分のことに置き換えてみると、
確かになんのかんのと理由を付けているが、
実は出来やしないんだ。
出来ないと認めたくないので、
誰かのせい、環境のせいにしている。
出来もしないのに「ホントは出来るんだ」
なんて、確かにうぬぼれている。

そんなことを思ってたら、こんな言葉を見つけたよ。

俺は、絶対落ち込まないのよ。
落ち込む人っていうのは、
自分のこと過大評価しすぎやねん。
過大評価しているから、
うまくいかなくて落ち込むのよ。
人間なんて、今日できたこと、
やったことがすべてやねん。
by 明石家さんま


なるほど、全くその通り。
さすがはさんま。





2019.9.26

筆算に定規?

算数の筆算に定規を使うことが問題になっている。
小学5年生の男児が、夏休みの宿題の筆算の
横棒に定規を使っていなかった(手書きで線を引いた)
ために160問の書き直しを担任教師に命じられたらしい。

私は、筆算に定規を使うよう指導された
覚えがないので、大変驚いた。
別の子供(小5)は、テストで計算が合っているにも
関わらず、筆算の横棒を手書きで書いたために、
横棒1本につき1点、合計11点が
減点され、90点だった試験が、79点になっていた。
繰り返すが、計算の答えは合っているのに
減点されたのだ。

なぜ、筆算に定規を使わせるのか。
いくつか理由があるようだ。

まず、手書きだと雑になり、桁を間違うことがあるので
丁寧に書くことで、計算ミスを防ぐためらしい。

また、面倒くさいことをさせることで、
忍耐力を養うためでもあるらしい。
そして、面倒くさがらずやる子の方が、
学力が伸びるらしい。

そういう背景があるのは分かったが、
疑問を持った子供は、納得してないし、
疑問を持った保護者に
「学校の決まりだから」と答えた教師もいるという。
アホちゃうか、と思う。

もうひとつ理由があるらしい。
定規で線を引く練習だというのだ。

百歩譲って、それらの効果を全部認めたとしよう。

で、筆算で桁を間違えるようなミスをしない、
練習しなくても、定規できれいに線を引ける
子供には、なんの目的があって、
わざわざ時間がかかる非効率なことを
やらせるのだろうか。

まさか「みんなと同じことするため」とか
言うのちゃうやろな。

忍耐力を身に着けるためなら、
算数でやらなくても良いだろう。
算数は、忍耐力を養う教科ではないはずだ。
難しい問題にあきらめず取り組むことで、
忍耐力が養われるのは分かるけど。

もしかして、
世の中は、理不尽で不条理だと教え込むためか。
なるほど、それなら分かる。

そして、教師たちは、子供に向かって、
「キミたちが納得できる答えは持っていないよ」と、
言うのだな。

なんだか今日は、かなり嫌味です。

そもそも、定規を使わないからと言って、
計算が出来ているのに算数の試験の
減点をすることが、教育なのだろうか。

問題を見た瞬間、筆算しなくても
暗算で答えの分かる子供も、
「定規で線を引いていない」という理由で
減点するのだろうか。

筆算に定規、私はナンセンスだと思うのだが、
皆さんはどう思うだろうか。

* * * * *

今月、妻が仕事で推進している、
「SQ教育を学校に導入する」ための
NPO法人が設立された。

「SQ教育」というのは、簡単に言うと
定規を使う理由を訊かれたとき、
「学校の決まりだから」などと答える
アホな教師を創り出さないための教育だ。

もし、筆算に定規を使うとしたなら、
子供たちが自ら使うようになるような教育だ。

定規を使わなかった試験の点数を
減点することを、児童も含めて、
話し合い、決定するような教育だ。

哲学対話で成績が伸びたという
東京都立大山高校の
記事を読んだことがあるが、
定規を使わせるより、
筆算に定規が必要かどうかを、
子供と教師が議論する方が、
よほど学力が伸びるような気がするがどうだろう。
そして、定規を使うとしても、
十分議論した後でもよいだろう。


[ 関連記事 ]
筆算の線、手書きダメ? 小5、160問「書き直し」
割り算の筆算は定規使わないと減点!?





2019.9.29





写真は、「亜利江汰」と書かれた書。
来年、京都にオープンするの予定の
ホテルの名前が、「ARIETTA」。
ホテルの社長が漢字を考え、
N さんが書を書いた。
オープン後のホテルに飾られる予定だが、
今は会社の会議室に飾ってある。

先日、この書を書いた N さんと
話す機会があった。
N さんとは、以前から面識があったが、
今までは要件会話程度で、
ゆっくり話したことはなかった。

70代前半だと思うが、今も仕事をされており、
書は趣味で書かれている。
見た目はとってもダンディでカッコ良い人だ。

6年ほど前に身体を痛めて、
ゴルフに行けなかったとき、
奥さんに「何かしたら?」と言われ、
思いついたのが書道だったという。
寺原聖山という書道家の字が好きだったのが、
きっかけらしい。

習い始めて6年というから60代半ばで
始められたわけだ。
六十の手習いというわけだが、
筆を持つのは、小学校以来だったという。

6年でこんな字が書けるようになるものかと
思ったのだが、話を聞いて一番驚いたのは、
これを書くのに折り目をつけたり、
鉛筆で線を引いて、目安を付けたり
していないということ。

私も、意外と器用である程度の大きさなら、
線を引かずにバランスよく書く自信があるが、
これは紙の部分が横幅 140cm もあるのだ。
それを線も引かず、折り目も付けず、
いきなり書いて、このバランス。
しかも、この1枚しか書いていないという。
何度も書くと、「上手く書こう」とし出すので
ダメなのだという。
音楽でいえば、1st テイクで決める、ということだ。
やり直しは、しない。
そして、もちろん途中で躊躇したりしては、いけない。
思い切りよく、大胆に書く必要があるだろう。

元々の才能があったのだろうとは思うが、
聞くと毎日3時か4時に起きて、
練習しているという。
練習はたくさん書くけど、
本番は1枚、と決めているんだという。

言うことがいちいちカッコ良くて、
ギターを弾いたり、写真を撮ったりしていることと
共通しているので、全部、腑に落ちることばかり。

すっかり、話が盛り上がり、というか、
次から次へと質問が出てきて、
40分ほどお話を聴かせて頂いた。

そうか、書道もいいなぁと思ったけど、
これ以上、やることを増やしたら、
ますます中途半端になるので、
手を出すのは、やめておこうと思う。
(今のところ。)


(2019.10.16 追記)
N さんとお話しした時の
不思議な偶然を思い出した。
N さんが、宮崎県出身だと分かって、
「宮崎のどちらですか?」と訊いてみた。
私の母が宮崎県児湯郡(こゆぐん)
出身で、私が子供の頃は、まだ祖父母が
住んでいたので、夏休みに何度か
連れて行ってもらったことがあったからだ。
N さんの故郷は高鍋町。
聞き覚えのある町の名だと思ったら、
なんと 児湯郡 だった。
親戚以外、児湯郡出身者に出会ったのは、
人生で、初でした。





2019.10.5

10月の真夏日

幸い私は、仕事中にネクタイを締めたり
スーツを着なくても良い。
なぜ、「幸い」なのか分からない人も
いるだろうけど。
夏場は、Tシャツかアロハシャツに
短パンといういでたちで、出社する毎日だ。
高校生の頃、朝の通学電車の中で
「毎日ネクタイを締めて、満員電車に
乗るのはイヤだ」と思っていた。
いくつもの夢が妄想に終わったが、
その夢は実現している。

今年は、10月に入っても暑い日が続き、
今だに短パンで通っているよ。

今日は、友人の息子(小6)の
運動会の撮影に行って来た。
こないだ保育園に通っていたと思ったら、
もう6年生。
時の流れの速さにただただ驚くばかりだ。

今日の東京の最高気温は
なんと 31.2度。(練馬区で観測)

最高気温が30度以上の日を真夏日というが、
10月の真夏日は、記録が残る1875年
(明治8年)以降で17日だという
記事を読んだ。

10月の真夏日 暑いのも程がある

その記事によると、真夏日が2日あった10月は、
1915年、2013年、2016年、2018年の
4年だけだったそうだ。
が、今年も昨日に続き、今日が2日目の
真夏日となり、5年目の年となったわけだ。
140数年間で5年。
その4年が2010年代に集中していることを
考えても、地球の気候が変わってきたことは、
間違いない。
しかも2年連続。

先日、国連の気候行動サミットで演説した
16歳のスウェーデン人少女、
グレタさんの演説を聞いた。
彼女の言う通り、今すぐ何かを手を打たないと
本当に深刻な未来になってしまいそうだ。

10月でこんなんなのに来年7~8月に
開催される東京オリンピックは、大丈夫なのだろうか。
死人が出なければいいが。

今日は日差しも強く、真夏ほどではないにしろ
日向にいるとじっとしてもいても汗が出るほど暑かった。
運動会は、熱中対策のため、
午前中も午後も、途中で15~20分の
休憩を取り、児童たちをいったん教室に
入れるという措置が取られた。
色んなことが、昔とは変わってきている。

そして、運動会の撮影は、毎度難しい。
今日は、組体操中ターゲットの児童を
一度も見つけられず、焦った。
焦れば焦るほど見つけられないのに。

今年はカメラを新しくしたおかげで、
徒競走の連写には強くなった。
楽しみに撮った写真を見てみると
(全部ではないが)ピントが合ってないやないか。
使いこなすためには
もっと練習が必要だ。


晴天に はためく校舎に掲げられた日の丸






2019.10.16

アフィニティについて考える

「アフィニティ(affinity)」という英単語がある。
いくつかの意味があるようだが、
ここでは「親近感」という意味で、
「アフィニティ」について書こうと思う。
ならば、日本語で「親近感」と書けば良いのだが、
「アフィニティ」という言葉を使い慣れると、
「親近感」とはちょっと違うニュアンスも
含まれている感じがしてくる。
それが何か、説明が難しいのだけど。

例えば、街中を歩いていて、
すれ違う赤の他人には、アフィニティはない。
どうかすると、人だとは思っていないぐらいに
アフィニティがない。
初対面の人にも、あまりアフィニティは
感じないものたが、その人が同郷だと
分かったり、共通の友人がいることが
分かったりした途端に急にアフィニティを
感じることがある。
そんな経験は、誰しもあるんじゃないだろうか。
「アフィニティが近くなる」感じだ。
これは、目には見えない。
見えないけど、確かにあるのだ。

まれに初対面なのに、
妙にアフィニティのある人に出会う。
前述の例のように、何かの共通項を発見して、
アフィニティが接近するのではなく、
出会った瞬間からそう感じるような人だ。

私の体験を観察するに、
それは私が相手にアフィニティを
感じるというよりは、いきなり相手が
非常に近いアフィニティを持って現れたという感じだ。
初対面なのに、
「あれ?この人、前から知り合いだったかな?」
そんな錯覚を覚えてしまう。
それは、相手が同性でも異性でも。
とても、不思議な現象だ。

たまに、良く知らないのに
馴れ馴れしい人がいるが、それとは違う。
馴れ馴れしい人に対しては、
軽い違和感、一種の嫌悪感は感じても、
アフィニティは感じない。
むしろアフィニティは遠ざかる。

最近、とてもアフィニティのある人と知り合った。
彼女のことは、名前以外何も知らない。
今までに数回お会いしたが、
初対面の時から彼女の私に対する態度、
雰囲気は何十年も前からの知り合いのようだった。
中学高校の時、仲の良かったクラスメイトに
同窓会で、何十年ぶりに会ったぐらいの
アフィニティといえば、分かり易いだろうか。

このアフィニティの近さは、
相手も感じているのかどうかは分からない。
妻も同様に、彼女に出会った時から、
アフィニティの近さを感じているというから、
私個人のことではないように思う。
彼女の持つ特質なのかもしれない。

アフィニティは、人に対してだけではない。
物に対してもある。
例えば、装飾品などが分かりやすい。
それを普段は、好みということで片付けているけれど、
「affinity」には、「好み」や「相性」といった
意味もある。
「好む」ということは、アフィニティがある、
ということでもある。

ところで、
ウイスキーとベルモットを使ったカクテルに
「アフィニティ」と名付けられたものがある。
残念ながら、飲んだこともなく、
これにはアフィニティは感じない。





2019.12.26

品川東京方面には まいりません

山手線の五反田駅でのこと。
品川東京方面のホームに電車が入ってくる際、
「この電車は品川東京方面にはまいりません」と
構内アナウンスが流れた。
品川東京方面ホームに来る電車が、
品川東京方面に行かないとは、
いったい何を言っているんだと、
頭の中は「?」状態になった。

ホームの電光掲示板を見ると
「大崎」と表示されていた。
大崎駅止まりということだ。
大崎は五反田の次の駅。
つまり、この電車は大崎駅が終点なので、
品川駅や東京駅には行きません、という
意味のアナウンスだったのだ。

それにしても、おかしい。
五反田駅から見ると、大崎駅は
「品川東京 "方面"」にあるのだ。
だから、「品川東京方面にはまいりません」
というアナウンスは、間違っている。
品川駅や東京駅(つまり大崎駅の先の駅)には、
行かないけれど、それは「品川東京 "方面"」に
行かないというわけではない。

これ、外国人が聞いたら、凄く混乱するだろうと思った。
いや、日本人でも混乱する人はいるだろう。
現に私が、一瞬「?」となったのだ。

この場合、アナウンスは
「次の品川東京方面にまいります電車は、
大崎止まりです」で良いのではないか。
もし、付け足すなら、「品川駅、東京駅へは
まいりませんので、次の電車をご利用ください」等と、
言えばよいのではないか。

いちいち、こんなことに引っ掛かるのは
めんどくさいおっさんになってきたということか?
とすると、私は、何方面に向かっているのだろう。






ひとりごと